「いらっしゃいませぇ」
気の抜けた挨拶をすると、シオミちゃんが入ってきたところだった。
近所の有名な進学校の制服を着た彼女はいつもの綺麗な整った顔で私をじっと見つめた。にこっと微笑むと、目を逸らしてクラシックコーナーに入っていった。
ここの楽器店に勤め始めてようやく2年がたとうとしていた。
「江藤楽器店」と、店長の名前が入ったこの楽器店は結構古く、楽器店なのにレコードやCDなんかがずらりと並んでいて、お客さんは主にそっちを購入する。
シオミちゃんもそんなお客の一人で、ここに買いに来るようになって4ヶ月くらい。
でも買うことは滅多にしなくて、主にふらふらとCDを見ているだけ。
私は、そんなシオミちゃんの顔を3つ知っている。
多分、シオミちゃんのことをシオミちゃんより、シオミちゃんの家族より、友達よりも知っていると思う。
シオミちゃんは、お母さんとたまにクラリネットのリードを買いにくる。
部活かなにかで吹奏楽かオーケストラをしているのだろう。
譜面台やチューナーやメトロノームなども、4ヶ月前の春にまとめて買った。
そのときは、笑顔で店の扉を開けて母親の腕をひっぱって譜面台をじっとみていた。
「シオミ、3年間使うものだから真剣に選びなさいよ。」
母親の言葉に彼女はゆっくり微笑んだ。
進学校の硬い雰囲気の制服には似合わないくらいの屈託の無い笑顔を、私は何故か今でも思い出すことができる。
彼女はこの店を母親と訪れる時には、そんな風にまるで子供のように振舞う。
無邪気な笑顔を、これでもかと振りまく。
母親はそんなシオミちゃんを見て、安心したように微笑む。
美しい親子が、そこにはあった。
しかし、数日後シオミちゃんは初めて一人でこの店に来た時、母親と訪れる時には見せないような雰囲気を纏っていた。
無表情で、それでいて足取りは軽やかだ。
お気に入りだろうCDを見つけたときには、そっと微笑む。
その表情はどこか大人びていて、私は盗み見るたびにドキッとする。
さらに1ヶ月がたったころ、シオミちゃんは友達を連れてきた。
甲高い笑い声を放つ彼女の姿は、まるで別人のようだった。
どこにでもいそうな中学生だった。
どっちかというと、店には迷惑な存在で、店長は眉をひそめていた。
でも私はそんなシオミちゃんを嫌いにはなれなかった。
一体どのシオミちゃんが本当なのか、わたしにはわからない。
けれど、確かにどのシオミちゃんもシオミちゃんで、嘘は見あたらなった。
だけど、きっと母親は大人びた表情を知らないだろうし、甲高い笑い声も知らないだろう。そして友達は、無邪気な笑顔を知らないだろう。
シオミちゃんのひとつひとつを思い出すと、まるで私は一番シオミちゃんに近い人物に感じてしまう。
「これ…」
そんな昔のことを思い出していると、いつの間にかシオミちゃんが目の前にクラリネットの教則本を持って立っていた。
「あ、すみません」
慌ててカウンターに立ち、レジを打つ。
シオミちゃんはカウンターに一緒にお札を置くと、無表情で俯いた。
シオミちゃんは、独りの時はいつもこうだ。
顔に感情はなくて、一体何を考えているのかわからない。
けれど注意して息遣いを聞くと、たまに溜息をついていることがある。
申し訳程度に流れているジャズの音楽を聴きながら、私はふと思い出して、俯いている綺麗な少女に声をかけた。
「あ、貴方カードもってなかったよね。」
そういうと、俯いていた顔がゆっくりとこっちを向いた。
整った顔立ちに、中学生とわかっていながらも気圧されてしまいそうになった。それほど、彼女は綺麗だった。明るくない店の照明が、そんな彼女の表情を惹き立てていた。
「カード?」
「スタンプカードなんだけどね、500円毎に一個。
50個集めるとこのブローチが貰えるの。
よくお店来てくれるし、カード作っとこっか?」
江藤店長が最近思いついたサービスだ。
どこかの店でそんなサービスがあって吃驚したのだという。
ブローチはいろいろな楽器の形や音符の形をしていて、結構可愛い。
だけど50個も集めて貰うには小さすぎるプレゼントだろう。
シオミちゃんはそんな面倒くさい事しないかなと、思ったが、彼女はしっかりと私を見据えて、はっきりといった。
「お願いします」
私はその瞳に一瞬見惚れたが、慌ててカウンターの下からカードとボールペンを取り出した。
「そこに名前と今日の日付を書いてね」
綺麗な指先でペンをとると、丁寧に言われたとおりに記入をした。
『江川汐美』
名前の欄にそう書かれたのをちらっと見て、今日の分のスタンプを3つ押した。
カードを受け取ると、ゆっくりと扉に向かった。
「汐美ちゃん。」
私は気がついたらその少女を呼び止めていた。
「はい…」
大人びた表情を、開け放たれた扉から差し込む夕日が照らしていた。
「綺麗な名前ね。」
そういうと、汐美ちゃんは驚いたように目を見開いた後、ゆっくりと微笑んだ。
それは、母親と一緒にいるときの無邪気な笑顔じゃなくて、でも大人びた笑顔でもなく、馬鹿笑いの時の笑顔でもない。
「ありがとうございます。」
初めてみた、汐美ちゃんの笑顔は、今までで一番美しくて、一番儚かった。
きっと汐美ちゃんは50個スタンプを集めるだろう。
ブローチを渡す頃には、きっと他の汐美ちゃんの表情を私は知っていると思う。
誰も知らない、汐美ちゃんを。
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